- 日本に住んでいると
アメリカでもそうかもしれないけれど、この世の中に差別があるとはなかなか気づかないと思う。だけどヨーロッパにおいても今もなお、差別というか人種による区別はあり、差別というのは、例えば「出る杭は打たれる」的なものであって、ヨーロッパのそれは、もう普遍的に変わることのないヒエラルキーの中で存在しているために、石ころかそうでないかぐらいの線引き、つまり差別するにも及ばない対象として区別されてしまう。当然我々日本人もそうである。
2002年、そんなイギリスのロンドンで、投げられる生卵を避けながら結成された日本人だけのバンド、それがAEROPLANEだ。
古くはフェイセスでロッド・スチュワートの横でベースを弾いていたテツ山内、ピーター・グリーンと活動したクマ原田など、日本人としてイギリスで活躍したミュージシャンはいたし、日本から大量のファンとともにバブルマネーでやってきて、ロンドンでコンサートをしたり、レコーディングをしたミュージシャンも沢山いた。けれどそれに比べるとAEROPLANEは全員無名の日本人であり、しかもバンドメンバー全員が日本人というのは、バンドの中に一人日本人がいるというのとは全然コンセプトが違うし、目的も大きく違うわけです
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それはつまり戦い
日本人のアイデンティティを文化的に確立する戦いを臨んだのだ。 はっきりいって、そんな目標でも無いと、バンドをやるモチベーションは当時なかった。僕とノブヲは、以前にAPESというバンドで約2年活動していたのだが、それが解散。色々あってイギリスから逃げ出したい!というのが当時の本音だったと思う。あの時もしポールに説得されなければそのままスペインにでも行っていたと思う。
APESが初めてロンドンのガレージでライブをやった時、すぐに3人ぐらいからマネージャーをやりたいと言われた。そこにポールもいたわけだが、タッチの差でAPESのマネージャーは別人に決まってしまった。その後もポールは僕らを追い続けており、APESが解散すると同時に僕に新しいバンドを組むように、サインしてレコードを出すように、まぁ平たく言えば「働け!」と、そのための後押しをしてやるから、という感じで話し合いを持った。けれど、そのオファーを何度も断った記憶がある。 それがある事件があって、気持ちが変わった。ここでは書けないけれど、途中で投げ出すわけにはいけない、と思ったのだ。そして上記したやりたいことをポールに話し、納得してもらったので自分でバンドを作る決心をした。
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当時のロンドン
当時のロンドンでも日本人だけでバンドを組むのは大変だ。音楽を好きな人、楽器が弾ける人、パンクに興味がある人、そして元気がいい人。これらを満たす条件の日本人を見つけるのは簡単ではない。宣伝もした。ジャパンセンターに張り出した募集の紙をみて電話を掛けてきたのは、イギリスに来て1週間目のナオトだ。昔からの友達だったヒロくんがピアノを弾けるのを思い出して電話した。ハルヲはどっかのライブハウスで暴れまわっている日本人がいるとの情報でスカウトしにいった。そしてノブヲ。
はっきり言って、とても心もとない、素人集団のバンドである。しかもまだ友達でもない。そんなバンドを早くまとめてある程度のレベルに引き上げるにはとても有効的な目標だったと思うが、当時そこまでみんなに話していたか記憶がない。それに各々で様々な思惑があったと思うし。
とにかく僕にとっては、金持ちになるためでも、有名になるためでもなく、(多少はあったと思うが)国籍というスタート位置のハンデを乗り越えなければ、初めて音楽の内容で対等に勝負できる世界に入れなかった当時のイギリスの状況を打破することこそが、一番のモチベーションであり、それは戦争を仕掛けるぐらいの気持ちでいかないとダメだったことも確かで。
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今だって
ジャパニーズカルチャーといってアニメやテクノロジーなどもてはやされているが、結局はガラパゴス諸島のイグアナをペットに飼うような感覚で、彼らは珍しいものを持て遊んでいるだけなのだ。残念ながらそれを理解している日本人は少ないと思う。
ともかく、AEROPLANEの短い活動は実を結ばなかった。
ロンドンのPOPMUSICUKとマネージャー契約をしたのち、同じくロンドンのロイヤリティレコードから2枚のシングルを出しただけで、英国ミュージックシーンから姿を消した。それでもたいしたことだと思う。イギリスのレーベルがAEROPLANEがやりたかったことを理解した上でサインしたわけだから。僕らのような意気込みで誰かが後を継いでくれれば、決して無駄ではなかったと思う。 それにAEROPLANEを終わらせなければならなかった責任はボクにある。記憶が曖昧だが、ナオトがいうには、ボクがマリファナで強制退去になったのだ。もちろんその後色々建て直しを計ったし、やれるべきことはしたが、それはあまりにも悲しい記憶なのでここでは割愛する。というかその頃の記憶があまりない、といったほうがいいだろう。
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その後各メンバー
その後各メンバーも、時間の中で忙しい毎日を頑張って生きている。ボク以外は結婚し、就職し、家庭を築いている。それぞれの生活の中で戦っているのだ。ボクはそんな彼らとときおり連絡をとったり、特に僕はその後も放浪生活を続けていたので、たまに日本に帰ってくると飲みにいったりした。最後に全員がそろったのは2002年の12月31日だと思うけれど、個人レベルでの付き合いは続けていた。いや、続けてもらっていた。
そして突然、今年の9月にナオトからメールが来た。「AEROPLANEをもう一度やりたい」
活動休止の原因となった張本人のボクには、断る選択肢はない。残りのメンバー、ノブヲとヒロくんに連絡をとり、一度スカイプで話をしようということになった。 そしてそこで集まった全員が、「よし、やろう」といった。単純に美しいと思う。これで話がオシマイ、となれば「美しい話でした」となるのだが。。。
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もう一度やるのだ
痛みも伴う、過程にはめんどくさーい!もある。中途半端では出来ないから、ヨイショォオオって腰を上げなければならない。だからそのためには目標が必要だ。以前のように麻薬のような目標は立てられない。昔誰かに「お前はハルヲを洗脳している」とケンカを売られたことがある。時に意味のある目標は人に夢を見させ、野心をいだかせ、生き方を変えてしまう。ハルヲはそれが自分の中で膨らみすぎて消化できなかっただけなのだ。だからボクから影響を受けたからといって、どのように影響を受け止めたかまで知ったことではない。でも他人の人生でとやかく責められるのはいやなので、今回の目標は2012 年12月にメンバー全員そろって温泉へ行こう!ということにした。1年かけてCDを作って、その温泉で聴きましょうと。
もちろん発起人のナオトには他の思惑もあって、それも明らかにされていくでしょう。
とにかくAEROPLANEが10年ぶりにレコードが出せるか、全員(家族つき)で温泉で再会できるか。そして行方不明のハルヲは見つかるのか。それがこのリアルドキュメントであるPODCASTのあらすじです。 合言葉は「ダメでモトモトやーん」でいってみよう!